私が中学生の時の部活の話である
男子と女子は隣り合って体育館を1/4ずつ使って活動していたのだが、女子の中に1つ上の女子部員に忘れられない人がいるのだ
名前は知らない
残念ながら、憧れていたとか、好きだったとか、甘酸っぱい恋愛の話ではない(笑)
その人は話した事はないが、見るからに少し内気そうな子だったと思う
真面目な感じのメガネをかけた子だった
正直周りの女子部員に溶け込んではいるようにも見えなかった記憶である
部活の雰囲気であるが、男子はふざけた遊んでる雰囲気がある中、
女子はその年齢にありがちな上下関係が厳しく、下級生は(今では存在しない)ブルマ姿で中腰で先輩の視線を常に感じる、ピリピリした中で球拾い、そこで女子の先輩はゲラゲラ笑いながら適当な練習をしているといった風景であった
その中でその子は一際異彩を放っていた
同級生と打つでも、戯れるわけでもなく、下級生に絡むでもなく
毎日その子がやっていたのは隅っこでの1人壁打ち…
同級生にも、後輩にも背を向け、ひたすら毎日壁打ちしていた
“強さ”
孤独に負ける子であれば、そのまま部活に出なくなるだろう
あるいは同級生におもねって、仲間に入れてもらえるように努力するだろう
あるいは後輩を手なづけたりして、取り巻きを作るだろうか。
別にやらされているわけでもない、サボろうとすればサボれるだろうし、あの雰囲気の中で1人毎日壁打ちだけを繰り返す根性は少なくとも自分は持ち合わせていない、少なくともあの当時の自分は
穿った見方をすれば、ただの変な子で終わらせる事も出来るだろう。
そんなのさぼらないのは内申書のためでしょ?とも言えるだろう
だが、自分にはそうとは見えなかった
“勝負の世界”
個人的な甘えは必ず負けにつながる
団体戦であれば個人のエゴが周りを巻き込むことになるのだ
団体戦においては個人主義は封印するしかないのである
声を出さない
仲間を応援しない
自分が出られない、負けたからと試合中、周りの人を尻目に泣いているなど言語道断である
ここで本当の人間力が試される
人間逆境に立った時が本当の勝負なのだ
負けた時、試合に出られない時の行動こそが見られているのだ。
追い込まれた時からが本当の勝負なのである
それと戦って勝てなければ、相手にも結局勝てないのである
先輩の女の子のように“1人で壁に向き合う孤独を恐れない強さ”が必要なのだ
先輩の女の子は壁打ちをやり続けることで自分のプライドを守った、決めた事をやり遂げた
プロ野球において、いつ出番が回ってくるかわからない場面の為に素振りしていつでも準備している代打専門の打者…
サッカーにおいてもワールドカップにおいて交替で出られても出られなくてもアップして準備している選手の姿…
プロフェッショナルの姿である
プロになる人達だからみんなその世界ではトップクラスの矜持を持ってるはずの人達、それが控えに甘んじながらも常に一瞬の出場機会に結果を残そうとする厳しさは想像しただけでもゾッとする
並みのメンタルでは到底耐えられないだろう
だがそれは程度は違えど結局は同じなのである
強くなる為の個人主義とチームの為に頑張る団体戦での協調という矛盾しているような行動をしなければならない難しさ…
卓球でも各校のエースが集まっても必ず勝てるとは限らないのはその為である
うまくいかない、思い通りにいかない事を自分以外の他の事を理由にしたり、簡単に言えば、言い訳するのは簡単だ
だが、それは必ず悪い意味で本人に巡り巡ってくるのである
困難から逃げれば結局はいつかそれに追われる羽目になる、それがいつであるかだけの話である
それゆえ、自分はそれが垣間見えた場合、絶対に容認しない
いくらダダをこねようと無駄である
目先の利益など正直どうでもいいのだ
私論で恐縮だが、教育というのは“国家百年の計は教育にあり”だとまさに思っている
目先の利益だけに捉われて待ち受けるものは破滅である
そのために捨てなければならないものが多いのも事実である、安いプライド、妬み、損得、邪魔にしかならないのだ
しかし、それが人にとってなかなか出来ない事であるからこそ敢えてやる価値は充分にあるだろうと敢えて言わせてもらう
誰にでも出来ることは誰にでも出来るのだ、大した価値はない
今現在縁あって、週一度母校の中学校の体育館を借りて練習するようになった
その体育館の未だに残るその壁の前に立つと今でも壁打ちしていた先輩のその姿が目に浮かぶのだ
毎日一人、壁に向かう…
今自分が結局出来ることは一見意味のないような、つまらなそうな繰り返しである、自らのショボさに諦めや、怒りを覚えつつ…
だがそれが見る事も出来ない先々の為になるのであれば幸いであると信じるのである
もしそれを自分が見たいと願うのもそれもエゴでしかないのだ